プロフィール

緒方いたる

1993年ホテルオークラ(ホテルオークラ東京)よりキャリアをスタート。22歳より公邸料理人として、3か国延べ6年半で1万人を超えるゲストに料理を提供。渡仏後はランスブールなどで2年間修業。エルミタージュドゥタムラ、東京ステーションホテルなどで研鑽を積む。現在は、今までの経験を基に、好きな料理で誰かの役に立ちたい想いを実現する為に、料理教室を主宰する。調理師専門学校非常勤講師。

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主宰者
主宰者
有名でもない主宰者がどのような人物なのかを知るために、長めのプロフィールを用意してみました。お時間のある時にでもご一読していただけたら幸いです。

小学生時代 親父の焦げたハンバーグ

時代性もありますが、朝食は家族そろって食べていました。なぜだか兄だけはトーストで、両親と私はご飯でした。その頃パン食が大嫌いで、給食のコッペパンをよく残してはお節介な女子に残しているパンを見られてはそれをとがめられていました。母が作る料理は代わり映えのしないいつもの家庭料理でした。

しかし毎日作りたての熱々で今思えばそれがぜいたくでした。実家から送られてくる味噌を使った料理は今でも忘れません。代わり映えのしないいつもの家庭料理が記憶として残り、今の自分自身の料理観を形成してくれました。子供時代は特にそうですが、親が作った料理で身体や感性が育まれていきます。そんなわかりきったシンプルな理論が、いまさらながら最も重要で怠ってはならないと、この仕事をする様になってから再認識しました。

母が台所に立つのが自然だと思っていた時代、仕事が遅くなる理由で代わりに父が夕食を作ってくれたこともありました。後にも先にもこの記憶しか残っていません。そんな、一度きりの父が台所に立つ姿を見た私はなんだかものすごい特別な感じがしました。作ってくれたのは、ハンバーグです。真っ黒に焦げた「失敗ハンバーグ」を見て父は照れながら「お母さんのようにはうまく焼けないな~」といったことを鮮明に覚えています。毎日料理をしている母の記憶と一度きりの父の記憶…思い出に残る料理とはなんでしょう?記憶に残る料理の原体験でした。

中学生時代 手作りへのあこがれ

中学校では給食がなく、牛乳だけが配られていましたが、その時間が最も憂鬱でした。1年生の時は、母が手弁当を持たせてくれました。しかし2年生になった頃、家庭の事情により、通学途中にあるパン屋で昼ご飯を買っていました。もともとパンが嫌いなせいもあり仕方なく買っていました。

でも母が忙しくしている姿を見ると、お弁当を作って欲しいとは言えませんでした。クラスメイトの手作り弁当が羨ましかったのを思い出します。お弁当を毎日用意することは、本当に大変です。1年間だけでも手弁当を持たせてくれただけでもありがたいと、今の仕事についてしみじみ思います。

中2から3年生の頃には、簡単な料理はできるようになっていました。留守にしがちな母に代わって、自分が炊事をしなければならず、必要に駆られて始めた料理でした。不思議と、誰に言われることもなく、米のとぎ方を工夫してみたり、ホットケーキの焼き方を何度も繰り返してみたり、自己流の味噌汁を作ってみたり、料理に対して興味が湧いてきた時期でした。

高校受験の頃は炊事の時間も受験勉強あてていました。空腹はコンビニの弁当でしのいでいました。しかしこの時初めて、受験期間中は母の作った食事が食べたいと素直に思った瞬間でした。人生の節目にはやはりおふくろの味でした。でも、仕事だから仕方がないと、自分自身に言い聞かせていました。

高校生時代 バイト代1万5千円

自然な流れで、調理師免許が取得できる高校へ進学しました。飲食店でのバイト代が自分の口座に振り込まれた時のことは印象的でした。通帳を眺めながら、初めて振り込まれた1万5千円が働いた証となりました。当時は、フランス料理にあこがれていたわけでもなく、お店を将来持ちたいわけではなかった私に、担任は就職先候補にオークラをすすめてくれました。

料理人の最初の就職先でどんな上司・先輩・同僚と出会うかで行く道が定まると言っても過言ではないほど、最初の職場選びが大切である事を改めて思います。あの時もし他のホテルやレストランを選んでいたらどのように人生が変わっていたのでしょうか?もちろん当時高校生の私がそこまで考えているわけでもありませんでした。

高校生の頃は、洋菓子や和菓子にも興味があり迷った時期もありましたが、何故か日本料理や、中国料理には興味が湧かなかったのは今でも不思議です。偶然本屋で出会ったフランス料理の入門書を夢中になって読んだことを覚えています。

オークラ時代

オークラに入社しましたが、とにかく覚えることが多く、体力的にもきつかったです。しかし年の近い先輩たちが多く精神的な支えとなりました。配属された部署では、朝食は職場長の好みを優先に毎朝大皿料理を3品作りました。最初の半年間は、とにかく毎日同じものは出せないという思いで大変でしたが、無我夢中で作っていました。みなそれぞれ、作ったものに対して感想を述べてくれました。ダメ出しのほうが多かったですが、たまに褒められるとそれは嬉しかったです。

ある時に海外赴任のチャンスが巡ってきました。オーストリア・ウィーンとは聞きなれない地名でしたが上司は、私が語学勉強を続けていることを知っていてそれで推薦してくれたようでした。オムレツすら満足にできなかった私を抜擢してくれた上司に感謝しました。当時22歳。料理人としては少し早すぎた感じもしましたが、準備万端になるまで待っていたらいつになるか分かりません。見切り発車でしたが、今思えば決めてよかったです。

公邸料理人時代 美味しかったは究極の社交辞令

延べ3か国で公邸料理人として経験することができました。その時の様子をまとめてみました。初めて海外で暮らし、その後の料理観や見聞を広げてくれた経験はウィーン時代が最も思い出深く印象的でした。

オーストリア

1996年9月1日は日本を出発し、初めての海外生活のスタートでした。公邸料理人として必要なスキルは当時何もありませんでした。そんな若者を採用してくれた大使夫妻のことは今でも思いだします。日本語、ドイツ語、英語、タガログ語などが聴こえてくる日本大使公邸…当時は相当カルチャーショックを受けたのを思い出します。

そんな中でも車で市場へ行くときの一人の時間は貴重でした。市場では、見たこともない食材が季節ごとに現れました。片言の英語では現地の人には通じない為、ドイツ語の必要性を感じ、すぐに習いに行ったのもこの頃です。半年で成果が表れはじめ、片言でも自分の希望を伝えて、欲しい食材が手に入るようになりました。このおかげでメニューにも幅が出てきて、大使夫妻にも喜んでもらえる回数が増えたときはそれは嬉しかったです。

自分で考えてきたことがだんだん形になってきたのは、2年目を迎えるころでした。与えられた環境でいい状態のものが出せるのか?とにかくそのことだけを考えていました。時には、自分では気づかないうちに出した料理が、美味しくないと酷評されたこともありました。外交官の、「美味しかった」は、究極の社交辞令。正直な感想を言われました。その時はなぜ?と思い、かなりショックでした。

とにかくこの赴任中は無我夢中で働いていました。その後の大きなレセプションでの大使からの「ありがとう」の一言は、仕事で感謝された初めての体験となりました。住み込みで出勤時間がない分、一日18~20時間はがむしゃらに働いていました。今思えばもう少し要領よく短時間でやれなかったかなと反省しています。

自分で時間をコントロールできる分、すべて自己責任です。やらなかったらその分自分に跳ね返ってくる。自由で会社組織に縛られないとはこのような状況をいうのかと、若かったがそのように感じました。3年いるうちに、料理人としての幅を大きく広げてくれた経験でした。

フィンランド

2か所目の赴任地となるフィンランド・ヘルシンキ。ウィーンの時代の感覚が残っているので仕事はすぐに軌道に乗せることができました。大使夫妻ともいい関係を築くことが出来て一安心といきたいところでしたが、現地スタッフとの習慣の違いや私を試す姿勢に最初は慣れませんでした。

柔軟な姿勢を見せてくれない公邸スタッフは、イレギュラーな勤務時間変更や私の指示にいい顔をしませんでした。ここでもやはり話し合いと私が公邸料理人としてのスキルがある事を彼らに仕事で見せる方法が最も早い解決策と思いました。その後、理解を示してくれた彼らは私を助けてくれるようになり、より一層仕事に集中できる環境を整えることができました。自然の風景のすばらしさは随一で、フィンランド人の心の故郷や原風景が残る地方に行ったときの光景は今でも忘れません。

スイス

スイスの大使公邸の仕事に着けたことは、もう最後のチャンスだと思いました。仕事は過去に二度の経験があるため、不自由さを感じません。せっかくスイスまで来たのだから、週末は現地の評判のレストランで研鑽を積もうと考えました。往復4時間かかりましたが、今までやって来た店の中で一番仕事がしやすい環境でした。特別扱いされることなく、できることは何でもやらせてくれました。オーナー夫妻の懐の温かさは、一つの目標となりました。

週末だけでしたが、普段の仕事にいいリズムを与えてくれました。まだ食べたこともない郷土料理や家庭料理に興味をそそられ、土地のワインやまだ知らぬ料理、店の雰囲気が楽しかったです。あらためて、名前のない創作料理よりも、昔からある名前のある料理に心から楽しみ、安心して食事を楽しめていることに気がつきました。

フランス時代 文化としてのフレンチ

憧れていたフランス修業。意外とこんなものかと感じることもあれば、やはりさすがだと脱帽する場面もありました。フランス料理は日本でも学べるが、その根幹をなす人々に根付いている文化としてのフランス料理は、やはりフランスに行かなければ吸収することができないことを実体験できたことは大きかったです。

南仏カンヌ

夏のヴァカンスシーズン真っ盛りでした。イメージするリゾート地にあるレストランらしく、いい意味でラフな雰囲気の厨房でした。自己主張の強い料理人の集まりでしたが、仕上がった料理はどれも繊細で素晴らしかったです。常に自信が料理人たちの表情にも表れていました。最初のころは、日本人のほうが外国人よりも料理技術は優っていると思っていましたが、すぐに考え方を改めました。常に自信にあふれエネルギッシュな姿勢に感化されました。

リヨン近郊の店

秋らしい季節感のある食材を見るたびに胸が弾みました。カンヌの時と違いアットホームな厨房でした。また独特の料理哲学を持つ店で、先代の影響が強く残る料理でした。専門書に出てくる料理が繰り広げられ、私は見るたびに圧倒されました。店の先代が残した著書である料理書にはシェフが書いたメモや料理のポイントがびっしりと書かれてました。使い古され常に携行していたその料理書は、シェフにとってバイブルであり、先代と繋がることができたのでしょう。

アルプスの麓にある郷土料理を出すビストロ

随分と山奥まで来たなと我ながら感心しました。日本には紹介されていない、見たこともない郷土料理や伝統的な「名前のある料理」に感動しました。高級志向の強い料理しかやってこなかった私は、無意識に家庭・郷土料理やビストロ料理を避けていました。しかしこのことがきっかけで、変なプライドが消え、このように人々に根付いた料理こそフランス料理の源流であると実体験出来ました。

森の中のレストランで面接

最後の店についた私は、仕事や厨房スタッフにも恵ました。仕事が楽しくなると視野も広がり楽しかったです。この頃になると来年もまたフランスに来てレストラン修行をしたいという欲求が強くなってきました。始まったばかりのワーキングホリデーの制度を利用すれば、もう1年は希望する地方で働けるチャンスをつかめると考えました。時間が許す限りミシュランガイドを見ながら、履歴書を書いては送りました。

ほとんど返信が無いなか、前向きな返事をしてくれたお店には、休みを利用してどんな辺鄙な場所にあるレストランにも面接をしに行きました。そんな中、アルザス地方の森の中にある、レストランへ面接をしに行った時には道中、本当にこんなところにレストランがあるのかと不安になったことを思い出します。到着した私を待っていてくれたオーナーシェフは、笑顔で迎えてくれ、シェフルームへ案内してくれました。

改めてフランス人の外国人に対する懐の深さをこんな森の中にあるレストランでも感じました。シェフルームは本で埋め尽くされ著名な本の初版本まであり、それを見ただけでも来たかいがありました。料理書にはたくさんの付箋が張り付けてあり、メモ書きがすごかった。レッドカーペットを歩く三ツ星シェフでも普段の地道な努力を垣間見ました。これこそ私が見習うべき点でした。何よりオーナーシェフはちゃんと私に真摯に店の説明をしてくれたことが嬉しかったです。この店で来年働く意思を伝えました。

再びフランス

ふと見た最新版のミシュランガイドでは、これから行くレストランが、三ツ星に昇格されていました。面接した当時は二つ星の無名レストランだったところが一気に全国区になっていました。三ツ星になったとたんに一気にプレッシャーが襲ってきました。本当に務まるのか?心配になりました。翌朝から、勤務を開始した私はフランス人女性とコンビを組んで仕事をしました。

新しい設備。見たこともない調理器具や地方独特の食材。オーナーやサーヴィススタッフもフランス語が不十分な私に対する接し方も皆と対等で嬉しかったです。集団で行動するのが苦手で仕事がつらい云々よりも、人間関係に疲れ自我を出してしまうそんな私でも仲間と認めてくれました。働きやすかったのはオーナーの人柄がそのまま厨房の雰囲気作りに反映されていたからです。お店を支えるスタッフや、外部より支える食材業者やごみ回収業、洗い物専門スタッフ、ランドリー関連のパートのおばさん等に常に感謝の意を伝えていました。皆に対して同じ目線で話す姿を見て将来の手本としたいと思いました。

厨房の仕事は目まぐるしいほど忙しかったです。慣れてくると営業中の持ち場を一人で任せてもらえるようになり、信頼されてきた感じがしました。ここでの勤務最終日は、オーナーシェフと2人でイベントのケータリングへ行ったのはいい思い出となりました。

軽井沢のレストラン シェフは寂しさと孤独の闘い

フランスから帰国後は、軽井沢のレストランでお世話になりました。その頃の私は、シェフとして期待されている気負いもあり、やることが空回りしていた時期です。要求する仕事ができないスタッフに対しては容赦なく怒りを表していました。すべてフランスの仕事基準で物事を判断していた当時は、それでいいと勘違いしていました。あれだけチームメイトの感情など考えることなく、ただ料理のみを考え、店の利益だけを考えていた頃でした。よく辞めずに皆ついて来てくれたと、私が店を卒業するときに感謝しました。

いつものように順調に料理を出し営業が終わりかけていた時に、突然サーヴィススタッフからソースの味が美味しくなかったとゲストコメントを頂きました。そんなはずはないと、若かった私は怒りをあらわにし、サーヴィススタッフに詰め寄りました。そんな私をとがめたオーナーは、そのままでいいよ、ソースは上出来だし間違っていない、気にしなくていいと、言ってくれました。お客さんはそれぞれ、自分が間違ったことをしていなければそれでいい、と諭してくれました。

ある時、私の姿を見かけたスタッフたちはすぐに話を切り上げ持ち場に戻ってしまいます。寂しい気持ちになった私を見かねたオーナーは、シェフという仕事は寂しいものだよ、孤独に勝たなければできない仕事だとも言ってくれました。私は出勤時間を遅らせる提案をした。それでは、パンの発酵が間に合わない、クレソンを摘みに行くのはどうしますか?と、逆に私の方が質問された。オーナーの意向であるレシピを変えないことを前提とした提案だったが。自分達のことよりもまずは良いものを提供したいという皆の気持ちの表れが嬉しかったです。

紆余曲折時代 良いことばかりではありませんでした

海外や国内のホテルやレストランで貴重な経験を積むことができました。しかし順調なことばかりではありません。人生で言えば低迷期、負のスパイラルに陥っていた時期もありました。当時はどうしても独立し店を出すことに対して気持ちが整理できませんでした。

「料理やってます」とは言い換えれば「お店だします」と、同義語のように聞こえていました。お店はいつやるのですか?もう耳にタコが出来るほど聞かれました。お店をやることを前提とした、やり取りが煩わしかったのを思い出します。修行のことばかりで頭がいっぱいの時期もありました。いざ仕事から離れてみると、先のことを考えていなかった自分に気が付きました。料理人にももっと幅の広い選択肢はないものかと感じていた時もありました。

経歴が重すぎて入店希望するレストランに断られたこともありました。採用された個人店では使えないのでクビになったこともありました。オーナーと折が合わずケンカ別れをしたこともあります。わざわざマイナスの部分をさらけ出す必要もないかもしれません。でも、マイナスの部分もあるからこそ今の自分自身があるわけで…こういう自分にしか作れない料理もあるので、そのあたりを汲み取っていただけると嬉しいです。

自分自身が消化できていれば、どんどんマイナスの部分を表に出した方が良いと思っています。プラス面ばかりでは正直胡散臭く、料理に信頼が持てません。人生紆余曲折があるからこそ、食べた人に響く一皿が作れるからだと思っています。

歴史あるホテル時代 自分の時間を最優先に

40代になり働き方のことを真剣に考えるようになりました。再就職したホテルは、リニューアルを終えたばかりでした。まだ何も手つかずで、ただ仕事量は山ほどありました。配属されたところは、好きなようにして良いとだけ言われた。定年退職し嘱託で勤務しているベテランぞろいの職場でした。駆け出しのころ私がかつて教えを被った世代の料理人の方々を、今度は私がシェフとして指示できる立場にいることに複雑な気持ちになりました。

周りに相談しても、良い答えは見つかりませんでした。結局答えは自分で見つけるしかありませんでした。しかし、大きな組織ならではのダイナミックな料理は大きな学びがありました。若い料理人とのコミュニケーションで新たな価値観も見つけることができたことは大きな収穫となりました。調理師専門学校の講師もさせて頂くこともできました。しかしながら、自分らしい働き方を常に模索していた私は、料理長の立場からアルバイトへ契約を変更し、自分の時間を最優先に考えるようになりました。そのころから、料理教室を始めるようになり、今まで培ってきた料理の知識や技術で誰かの役に立つことに重きを置くようになりました。